| 1912年11月20日 |
オーストリア=ハンガリー二重帝国バルトホルツで誕生。 |
| '18年11月12日 |
帝国が崩壊し、オーストリア共和制となる。 |
| '19年3月23日 |
皇帝一家はスイスに亡命。 |
| '22年4月
1日 |
父カール一世逝去。母とともにマドリード郊外に移る。 |
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'29年9月15日 |
ベルギーのシュテノッケルゼールに移住。 |
| '35年6月27日 |
ベルギーのルーベン・カソリック大学を卒業し、政治社会学博士号を取得。 |
| '38年3月13日 |
ナチス・ドイツがオーストリアを併合したことに抗議して、いち早くパリの報道機関にその事実を報告。ナチス・ドイツへの抵抗運動を開始。 |
| '40年5月
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ドイツ軍がベルギーに侵入したため、一家はアメリカに難を避ける。一時カナダに移り、また米国に戻る。この間、オーストリア独立の復活と、ハンガリーを独伊枢軸から引き離す工作に専念。 |
| '42年1月
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「オーストリアはハンガリーやチェコ・スロヴァキア、バルカン諸国などと提携して中枢に連邦国家を作ることが、欧州の安定と対ファシズム、対共産主義の防壁のために必要である」とするドナウ連邦構想を、米国の外交誌「フォーリン・アフェア−ズ」に発表し、大きな反響を呼ぶ。 |
| '43年9月11日 |
ハイドパークでアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと会談、ツィタ皇妃も同席。 |
| '44年9月
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カナダ・ケベックでの米英首脳会談にチャーチル首相の招きで出席。同年秋、アメリカを発ちパリへ。'45年6月オーストリアに入国。 |
| '51年5月10日 |
レジーナ・ザクセン・マイニンゲン公女と結婚、二男五
女が生まれた。 |
| '54年
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この年から西ドイツ・バイエルンに居住。 |
| '57年
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パンヨーロッパ連盟(本部スイス・ローザンヌ、議長クーデンホーフ・カレルギー)の副議長に就任。 |
| '61年
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オーストリア帝位継承権の放棄を宣言。 |
| '62年3月
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初来日し、欧州情勢につき講演。昭和天皇に拝謁。 |
| '62年
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ツィタ皇妃スイス、ツィツァースの聖ヨハネス修道院に居住。 |
| '72年7月27日 |
クーデンホーフ・カレルギーの死去を受け、パンヨーロッパ連盟議長に就任。 |
| '79年
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西ドイツ国籍を取得。CSU(西ドイツキリスト教社会同盟)から立候補して欧州議会議員に当選。 |
| '89年3月14日 |
ツィタ皇妃聖ヨハネス修道院で逝去。 |
| '89年6月18日 |
ハンガリー民主フォーラムのフィリップ・マリア女史と極秘裏に会談し、オーストリアに通じる国境の町ショプロンでのいわゆる「ヨーロッパ・ピクニック」を相談。 |
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'91年12月 |
来日し「美しい日本を保つフォーラム」で講演。天皇陛下に拝謁。宮沢首相を表敬訪問。 |
| 96年10月 |
長男のカール・ハプスブルク・ロートリンゲンがオーストリアから立候補し、欧州議会議員に当選。 |
| '99年6月 |
欧州議会議員を引退。 |