THE COLLEGE PURSUE LADY'S LIFE
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ヨーロッパの
グローバリズムに学ぶ
 
     
 

オットー・フォン・
ハンプスブルク大公
のプロフィール

 



橋場 義之
[毎日新聞編集委員]


 ハプスブルク家は11世紀ごろ、スイス東北部のケルガウ州からドイツ・フランス国境のアルザス地方一帯に勢力を誇っていました。そのスイス生まれのハプスブルク家が歴史の表舞台に踊り出たのは、1273年、ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれてからでした。その後オーストリアに移り、神聖ローマ帝国が解体するまで、 帝位をほぼ独占してきました。そして第一次世界大戦に敗れた1918年、645年間に及ぶハプスブルク帝国の歴史は終わりを告げました。その間、ピーク時にはヨーロッパの大半をその勢力分野に置きました。「帝国とは、多民族国家の一元的な支配」といわれますが、ハプスブルク帝国もその典型で、12の民族が住んでいました。
勢力拡張には、結婚という手法が多くとられました。王室同士の縁戚関係を結ぶことで、平和裏にその国を支配下に置いていったわけです。しかし、実際の支配にあたって着目すべきことのひとつに、ハプスブルク家がもっていた他民族への寛容さをあげることができます。ウイーン世紀末文化は数多くの天才を生み出しましたが、その担い手の多くはユダヤ人です。 ハプスブルク家の寛容さに引かれるように、ヨーロッパ各地から迫害されたユダヤ人はウイーンをはじめ帝国各地に散在していて次第に学者や芸術家として頭角を表わしていったといわれます。ハプスブルク王室の人々が数カ国語を自由に使いこなせていたということも、その精神の表れということもできるでしょう。相手の言語を使えるということは、その国の文化を理解することにつながるからです。
  ハプスブルク帝室の貴族であったハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵は、明治24年、当時ハプスブルク家が支配していたオーストリア・ハンガリー帝国の代理公使として東京に赴任し、日本人女性青山光子と結婚しました。このエピソードは香水に「ミツコ」という名が残されたことでも知られていますが、東京で生まれた二人の二男リヒャルトは後に、「汎ヨーロッパ主義」を唱えています。「汎ヨーロッパ主義」は多民族を支配下に置いた帝国の歴史を踏まえて生まれたといえるでしょう。 この哲学は第二次大戦後、「欧州連合」という形で結実しました。帝国最後の皇帝カールの息子で、皇太子だったオットー・ハプスブルク氏がドイツを代表する欧州連合議会の議員を長く経験され、息子のカール・ハプスブルク氏も近年、オーストリア代表議員に当選して、その伝統的思想の体現に活躍しているのもあわせて考えると、これもまた日本とハプスブルク家をつなぐ歴史の妙ということを感じざるを得ません。
いま、世界は「グローバリズム」が席巻しています。しかし、その実際の姿は米国資本主義による経済優先の一律的なスタンダード化という側面も見逃せないのではないでしょうか。そうした中で、ハプスブルク家の歴史と伝統にはぐくまれてきたヨーロッパ的グローバリズムの本質を探り、アジアに視座を置きながら“日本にとってのグローバリズム”とは何かを模索していきたいと考えています。





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平成11年10月20日 講演会レセプションにおける
オットー・フォン・ハプスブルク大公

旧オーストリア帝国最後の皇帝カール一世の長子、母はツィタ皇妃。 1979年以来、欧州議会議員。六カ国語に通じる。

  1. ハプスブルク家の当主
  2. 欧州統合の思想的源流
  3. ベルリンの壁崩壊のきっかけとなったハンガリー・ショプロン村における、いわゆる「ヨーロッパ・ピクニック計画」の立案者であり実行者
  4. 20世紀の生き証人
..主な著書
『Charles ・(チャールズ五世)』
『Die Reichsidee(国家の理念)』(1986)
『Macht jenseits des Marktes(市場を超える力)』(1989)
『Karl ・(カール五世)』(1990)
『Zuruck zur Mitte(中道に帰る)』(1991)
『Friedensmacht Europa(平和の力ヨーロッパ)』(1995)


1912年11月20日  オーストリア=ハンガリー二重帝国バルトホルツで誕生。
'18年11月12日  帝国が崩壊し、オーストリア共和制となる。
'19年3月23日  皇帝一家はスイスに亡命。
'22年4月 1日  父カール一世逝去。母とともにマドリード郊外に移る。
'29年9月15日  ベルギーのシュテノッケルゼールに移住。
'35年6月27日  ベルギーのルーベン・カソリック大学を卒業し、政治社会学博士号を取得。
'38年3月13日  ナチス・ドイツがオーストリアを併合したことに抗議して、いち早くパリの報道機関にその事実を報告。ナチス・ドイツへの抵抗運動を開始。
'40年5月     ドイツ軍がベルギーに侵入したため、一家はアメリカに難を避ける。一時カナダに移り、また米国に戻る。この間、オーストリア独立の復活と、ハンガリーを独伊枢軸から引き離す工作に専念。
'42年1月     「オーストリアはハンガリーやチェコ・スロヴァキア、バルカン諸国などと提携して中枢に連邦国家を作ることが、欧州の安定と対ファシズム、対共産主義の防壁のために必要である」とするドナウ連邦構想を、米国の外交誌「フォーリン・アフェア−ズ」に発表し、大きな反響を呼ぶ。
'43年9月11日  ハイドパークでアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトと会談、ツィタ皇妃も同席。
'44年9月     カナダ・ケベックでの米英首脳会談にチャーチル首相の招きで出席。同年秋、アメリカを発ちパリへ。'45年6月オーストリアに入国。
'51年5月10日  レジーナ・ザクセン・マイニンゲン公女と結婚、二男五 女が生まれた。
'54年       この年から西ドイツ・バイエルンに居住。
'57年       パンヨーロッパ連盟(本部スイス・ローザンヌ、議長クーデンホーフ・カレルギー)の副議長に就任。
'61年       オーストリア帝位継承権の放棄を宣言。
'62年3月     初来日し、欧州情勢につき講演。昭和天皇に拝謁。
'62年       ツィタ皇妃スイス、ツィツァースの聖ヨハネス修道院に居住。
'72年7月27日  クーデンホーフ・カレルギーの死去を受け、パンヨーロッパ連盟議長に就任。
'79年       西ドイツ国籍を取得。CSU(西ドイツキリスト教社会同盟)から立候補して欧州議会議員に当選。
'89年3月14日  ツィタ皇妃聖ヨハネス修道院で逝去。
'89年6月18日  ハンガリー民主フォーラムのフィリップ・マリア女史と極秘裏に会談し、オーストリアに通じる国境の町ショプロンでのいわゆる「ヨーロッパ・ピクニック」を相談。
 '91年12月    来日し「美しい日本を保つフォーラム」で講演。天皇陛下に拝謁。宮沢首相を表敬訪問。
96年10月    長男のカール・ハプスブルク・ロートリンゲンがオーストリアから立候補し、欧州議会議員に当選。
'99年6月    欧州議会議員を引退。

 




 

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